2013年11月25日月曜日

長谷川時夫プロフィール

【2013年11月 アイヌ インド公演用にインドのマスコミ、関係者向けに制作したもの】

今回の日本のアイヌのインド3公演を企画したNPO日印交流を盛り上げる会の理事長 長谷川時夫プロフィール
1948年東京生まれ。インドのフォークアート、ミティラー画・ワルリー画を主要コレクションするミティラー美術館の館長。独自な宇宙観を持ち、「ナマステ・インディア」など日印の文化交流の代表的担い手として活躍している。NPO法人日印交流を盛り上げる会理事長。著書「宇宙の森へようこそ」(地湧社)
近代化を短期間で達成し、第二次大戦後の敗戦による国の荒廃にもかかわらず、現在世界第3位の経済大国になるという国、日本。その日本の中で、インド文化の紹介ということでは他に例を見ない活動をしている長谷川の主な活動とその背景について、以下紹介します。
1968年、侍の時代であった日本は、西洋諸国の外圧の中で、それまでの200年以上に及ぶ鎖国から、西欧・欧米文化を取り入れる開国をし、急速に近代化を推進することとなった歴史がある。
長谷川は1948年生まれ。東京下町16代目の江戸っ子。高校を卒業した後、当時アメリカで起きていたニュージャズを志した。テナーサックスを下町の小さな自宅で練習しているときに、外で、江戸時代から続く都々逸(どどいつ)を老人が歌うのを聞き、文明というものを直感する。「そばにある畳み(稲の茎で作られたマット)と都々逸(インドのガザルと似ている)は合うが、金属のテナーサクソスフォーンと畳みは合わない。音も同様で、音が大き過ぎて粗いことに気がつく。自分は畳が好きで、都々逸も好きだが、古い感じがする。今の自分に合った、音楽は?と、それ以来模索を始める。日本の社会には彼を満足させるものは無く、世界の音楽を一通り聴いても満足には至らなかった。それ以来、西欧化する以前の日本の文化を源とし、世界の音楽に影響されながら、新たなものができないかと歩みはじめる。仏教のお経を習い、即興で歌い始める(ドゥルパッドに似たような歌い方。当時、長谷川はドゥルパッドの存在を知らなかった)。現代音楽、ニューロック、彼はニュージャズであったが、当時それらの3つのジャンルからはみ出し始めた若者達と即興演奏集団「タージ・マハル旅行団」を1970年初めに結成。72年にストックホルム、国立近代美術館にて1ヶ月に渡って開かれた「ユートピア&ヴィジョン」という催事に、参加。その後、1年間に渡り、ヨーロッパ公演。その過程で、自分の周りに風が常にあること、太陽の影、特に石に注目した。演奏の町に行くと、大きな石を3つほど探し、ステージの上に置く。大きな石の前で胡座をかいて座り、自分が持ち上げられる最大限の重さの石を一度だけ頭上高く持ち上げ、下の石に打つというパフォーマンスを行った。持ち上げた時にすべての風を感じる努力をする。宇宙にいる己を感じたならば、落として石を打つ。石は地球上で最も美しいもの。そう感じさせる秘密は、地球は一つの石であり、月も石。宇宙は石で出きていると、当時、長谷川は思った。太陽がつくる木の影。そこに縄を掛け、影を縛り、10mほどの先でその太いロープを引っぱる。「影を引っぱる」パフォーマンス。影は、宇宙の大使「各国大使のような」と彼は言う。これに関連して、日本の茶道に最も大事なものは、茶室の花瓶に生けた花の影。和紙の窓を通した太陽の影が、宇宙を教え、そこに招かれた客と主人が、宇宙空間で出会うからだと言う。宇宙観を深めた長谷川は、生まれ故郷の東京に戻った時は、現在の中国の北京のような光化学スモッグに悩まされていた東京だった。東京には月が無い。そこで、200km離れた新潟県十日町市にある山の中に住むことになった。そこで、本物の美しい月と出会う中で、「私は月焼けした。」とも語る。
クリシュナ神やシヴァ神の顔が青いのは何故だか知っていますか?と彼はインドの人によく質問する。困った顔をしたインドの人に「クリシュナは満月が好きで、いつもゴーピーと踊っている。だから青くなったので、私ももう一万年も満月を見ていれば、そのようになるかも。」と言う。
宇宙観を更に深めようとする心の旅の中で、孤独感に苛まれていく。住んでいる場所は4mも雪が積もる場所。「当時、心が、まだ出来ていなかった自分にとって、山の中は怖く、小さな音を聞いてもお化けかなと思ったりするほどだった。」孤独は一気に深まり、生きていくことも難しい状態になった。戸を開け、吹雪の音を聞き、身体は雪で真っ白になっても、耳を澄ましていると、吹雪の音は、今まで聴いたどんな音楽よりも素晴らしく、そこで見る月は、今まで見たどんな絵画よりも美しいものだった。世の中につまらない芸術家がいなければ、人々は美術館に行く必要もない、音楽会に行く必要もない。それを止めているのは芸術家ではないか、などいろいろな思索をしていても、孤独感から離れることはできない。そんなある日、突然、目の前の雪原に小さな兎が現れ、通り過ぎようとした。「孤独だった自分は、野生の兎がこんなにも近くに現れたのでとても嬉しく思った。ふとこちらの方を見た、小さな兎の目は、孤独という世界にはなかった。いつ殺されるか分からない兎は去っていった。」その後、兎は彼の先生になり、先生を食べることができなくなったと言う。そして、長谷川氏は卵も食べない菜食を40年以上続けていることになる。山に10年暮らした後、大池という池がある地域の開発計画が起き、反対をした結果、代替案として日本では有数の豪雪地とされる森の中の廃校の小学校を文化施設として使うことになった。
インド帰りの青年が持ってきたミティラー画が縁で、インドに行きガンガー・デーヴィーさんと出会った。ガンガー・デーヴィーさんから「助けて欲しい。」と言われ、ミティラー美術館を創設する。長谷川は、日本の近代化の始まりの時に日本が誇る浮世絵が欧米に散逸していき、今ではお金がいくらあっても日本はそれらを取り戻すことは出来ない。こうした歴史のことを考え、小さな美術館でもこのミティラー画をしっかりコレクションすれば、そのうち、世の中に役に立つかもしれないと、何度も現地を訪れ、散逸し始めたミティラー絵画を集めた。そして、美術館のそのコレクションは、1980年代、故ププル・ジャヤカル女史より世界に類のない質と量のコレクションと言われた。1988年に開催された、日印両国家催事『’88インド祭』、日本委員会(インド側の委員長、ププル・ジャヤカル女史、日本側、小山五郎三井銀行総裁)の事務局長補佐になった長谷川は、それまでの国家催事が主要な大都市だけで開催されるのを見て、小さな、離島や沖縄の先にある島、地方の村まで開催。その時に、ミティラー画のアーティストを呼び、美術館でも展示できるような大型の作品を描いてもらうことをはじめた。以来、延べ100名を超えるアーティストが日本に滞在し、新しい作品に挑むことをはじめた。ワルリーの描き手の中には、17回も日本に招待された者もいる。ガンガー・デーヴィーも同様に招待され、彼女の世界に残された絵画の半分近くがミティラー美術館に収蔵されることとなる。それ以来、日印の国家催事の時に日本で開催される文化紹介において主要な役割を担うようになる。2007年から2008年に開催された日印交流年では、ICCRが日本に派遣した25の舞踊・音楽グループを北は北海道の利尻(日本の最北端)から、南は沖縄の与那国島(台湾が見える島)まで、162の公演とワークショップを開催。日本では今までなかった、あり得なかった催事を実現し、日印交流年賞をインド政府より受賞している。
1991年のインドの開放政策に対応して、日本の商工会議所とそこを事務局とする日印経済委員会は、日本企業のインド進出のきっかけになるように、インド文化紹介「ナマステ・インディア」を1993年より始める。日本で唯一のインド専門美術館の長谷川に声がかかり文化面で協力をする。2004年、日本経済が停滞する中、日本商工会議所はナマステ・インディアから離れることになる。関係団体からどこも手が上がらないので、長谷川がこれを引き継ぐ。以後、ナマステ・インディアの開催会場を代々木公園に移し、育み、発展させ、今日ではインド国外では世界最大級のインドフェスティバルに育てあげる。今年は9月28日、29日開催し、2日間で20万人を超えた。ナマステ・インディアの点灯式には、昨年はカラン・シン氏(ICCR会長)、今年は森喜朗(元首相)日印協会7代目会長が参加。今年のナマステ・インディア(21回目)は、特に、日印協会創立110周年を祝賀して開催。日印協会の110周年記念展に長谷川が書いたパネル(日印協会草創期)が展示されていた。そこには次のように書かれている。
 日本の経済の神様と呼ばれ、日本資本主義の父でもある渋沢榮一(日印協会3代会長)とJ.N.タタらの出会いと会話。それを政治面によって実現に結びつけた大隈重信(日印協会2代会長)によってボンベイと日本の航路が開設され、綿花の貿易がスタート。そのことによって、綿紡績が格段に発展。繊維産業の大きな、大発展につながり、戦前のトヨタやソニーが力を持たない時代、日本の主要産業となったことが熱く述べられている。
昨年の日印国交樹立60周年では奈良・東大寺において、日本に初めて来たインド人、菩提僊那僧を継承し、中門でのオリッシー公演、大仏の前でのワシフディン・ダーガルによるドゥルパッドの公演を奉納している。(これは菩提僊那が日本に来日して1275年の時を経て、インド政府が菩提僊那を継承して大仏に奉納した歴史的事業だと長谷川は言う。)ビノイ・ベール氏の「仏陀の智慧の道」写真展も同時に公開。長谷川は今年も同様に東大寺で開催している。10年間継続し、開催したいと言っている。また来年は、両国の文部大臣に参加して欲しいと語っている。
「752年に大仏が造られ、その詔を出した聖武天皇は当時、娘を天皇とし、自分は上皇となっていた。聖武上皇は病弱であったため、大仏の開眼式をインドから来た菩提僊那にお願いした。「断らないでくれ。」と手紙を出している。菩提僊那が大仏の瞳に大きな筆で墨を入れるときには、その筆から千近くものルイと呼ばれる紐がつけられ、大仏のお力を頂こうと聖武上皇をはじめ多くの人が紐を握った。儀式には歌舞音曲の人々、百官の他、1万人を超える僧がいた。この僧の名は東大寺要録の中に未だに残されている。いわば、オリンピックの何十倍という大事な催事。この一大国家催事を唐(中国)から船で渡り、一度は漂流し、2度目に日本に着き、その後東大寺のそばの大安寺で仏教を日本僧に教えた菩提僊那。この事は、両国の教科書に載るべきだと思っている。」
同じ60周年記念事業として、インドでは、日本のユネスコ無形文化遺産第一号の「能」を代表する観世流26世の公演をデリーとバンガロールで行った。
今年のアイヌ公演は、天皇皇后両陛下の11月30日訪印に合わせたわけではなく、昨年から決めていた日程に幸運にも時期が重なる。インドから日本に訪れ、長谷川氏の文化活動に協力したインドの舞踊・音楽家や関係者がコルカタ、ムンバイ、デリーの公演に協力する、長谷川の独自の国際交流が展開される。彼の国際交流事業の一つひとつは、まるで芸術家の作品のように、他にはない創造と豊かさ、人と自然、宇宙とのコミュニケーションについてのメッセージが随所に込められている。
■著作 『宇宙の森へようこそ』(地湧社)
■ミティラー美術館【http://www.mithila-museum.com
■ナマステ・インディア【http://www.indofestival.com