1948年東京浅草向柳原に生まれる。都立忍ヶ丘高等学校卒業後、1969年、前衛音楽グループ「タージ・マハール旅行団」を結成、自然・宇宙と一体化したパフォーマンスを繰り広げる。1971年1年間にわたってヨーロッパ各地を演奏旅行。帰国後、新潟県十日町市大池へ移住。自給自足の生活をしながら、音楽や絵の創作活動を続ける一方、都会の子供たちのために森の中でフリースクールを開く。
1981年、十日町市大池を中心とする開発計画に対し反対運動を展開し、自然をできるだけ手をつけない形による「宇宙観を基本とする社会教育」の新たな開発代替案を提言。その後市の協力により、廃校となった大池小学校の校舎と教員住宅を中心とするミティラー美術館を1982年5月設立。以後ミティラー民俗画のコレクションの他、インド先住民族の文化、ワルリー画、テラコッタ、ドクラなど先住民アートのコレクションと研究を充実させてきた。日本に招聘したインド人の民俗(族)芸術の新たな創造の場となっている。日本全国で国際交流としての美術移動展を積極的に展開している。
また国家催事『’88インド祭』事務局長補佐の活動の後、1989年ポストインド祭を考える会(代表)事務局として、地方における国際交流の発信基地としての活動を展開。 1992年日印国交樹立40周年記念委員会委員(外務省南西アジア課主管)、東京ナマステ・インディア委員(主催:日印経済委員会、他)などNPOとして国際交流に参画。
インド文化だけでなく、1985年「南中国広西少数民族くらし展」を地方から文化をというメッセージのもとに、5年間の交渉期間を経て、中国との民間交流としては最大規模の展覧会を地方発によって全国15市町村での開催を実現。1997年南太平洋アート展及びマオリ舞踊公演の全国展開、1997年エンジニアリング・トレード・フェアー(ニューデリー)に地元十日町市より全校児童9名の神楽公演とインドの学童との国際文化交流を実現、等の活動などがある。
1999年日印国交樹立50周年記念事業を盛り上げる会を組織し、その事務局および代表となる。その後ポストインド祭を考える会は解散され、発展的な形としてその活動は、NPOとして認可された日印国交樹立50周年記念事業を盛り上げる会に引き継がれた。会は2005年NPO法人日印交流を盛り上げる会に名称を改め、毎年インドより音楽・舞踊グループを招聘し、全国、地方の国際交流に努めている。
2007年日印両国間で行われた「日印交流年事業」において、日本における「The Festival of India(インド祭)」展開に、インド大使館の依頼を受け、日本全国35都道府県、北は利尻町から南は与那国町に至る60余の市町村で、162の事業の大半に協力・共催し、インド政府より「日印交流年賞」を授与された。
ミティラー美術館館長。
美術館の活動に対して平成10年度の国際交流基金地域交流振興賞を受賞している。
著書に「宇宙の森へようこそ」(地湧社)等がある。